精華團

精華團

精華團(住吉町)は、大正6年(1917)倭魂社の分家として独立。料亭・芸者置き屋などが多く華やかな遊びの出来るところと言うことで命名されました。

笠井第二自治会。

屋台は三代目、一層唐破風桧造り。

平成6年(1994)建造。

大工は大城総建(大城勝久)。彫師は雨宮國雄。

先代屋台には笠井出身の南画家“山下青城(やましたせいじょう)”(1882-1926)作「唐獅子牡丹(からじしぼたん)」の額が長年飾られていた。先人たちの想いと歴史を継承するため、正面弓貼り提灯の下の土台部分に、絵画と全く同じ唐獅子牡丹を彫刻。

屋台の中は、子ども連が大活躍。

写真上/自慢の彫刻

写真下/昭和21年(1946 )の精華團若連。

後列左から、桑原 勝、袴田セイイチ、中村テルオ。前列左から、坂田ショウジ、三福かづ子、三福きみ子、袴田タカシ

平成28年の團発足100周年記念でのお祓い

令和4年はコロナ禍で、お神輿が精華團會所の前を渡りました。

写真は、先代屋台です。(撮影日不詳)

精華團では、女子部も大活躍。

まつり囃子に華をそえています。

精華団発足から昭和初期までの簡単な歴史です。

和暦西暦概要(精華團発足〜昭和初期)
大正 41915当時属(ぞく)していた上町・倭魂社(わこんしゃ)と当町青年団との間で、大正天皇即位の礼を祝うか否か意見の相違。
倭魂社から離れ、政諾社(せいたくしゃ)及び笠勢司(りっせいし)と提灯行列、樽神輿による奉祝挙行。法被着用。
青年名称を「精華團」と決定。大正天皇即位の礼の御大典記念として発足。
大正 51916規約を作成。定年40歳。
山車台の新調が間に合わず、上大瀬より借用し、初めて祭典参加。
大正 61917倭魂社より分家として正式に認められる。手打式を挙げ、分離問題は解決。
山車台を新調。
大正 81919大太鼓1個、小太鼓4個(内1個は扇屋より寄付)を新調。
大正 91920規約を改正。定年35歳(他司社の定年は、倭魂社・笠勢司30歳、政諾社32歳)。
會所幕(かいしょまく)、手振鈴(てふりすず)の寄付を受ける。
大正 121923山車台を屋台へ改造。記念に写真撮影。
大正 131924屋台倉庫を新築(亜鉛板)。観音堂境内の査定上裏を借用。
大正 141925統監部が成立。前年の笠勢司青年と政諾社青年の衝突がきっかけ。
昭和 11926規約を改正。定年32歳。 大正15→昭和1
昭和 31928御囃子(おはやし)屋台を新造。屋台の車輪及び梶棒(かじぼう)を修繕。
屋台幕の寄付を受ける(新調)。
当町で初めて年番を置く。
笠井全町をあげて、昭和天皇の即位の礼を奉祝。提灯行列、出囃子(でばやし)、余興等。
町名を「住吉町」と決定。昭和天皇即位の礼の御大典記念として命名。以前の通称名は、西町。
昭和 41929壮年者により「一心會」結成(自治的役割を果たす中堅団体と思われる)。
余興として初めて女児が学校遊戯。夏服を作り着させ、他町の羨望(せんぼう)の的。
昭和 61931精華團の発議により、各町全役員が出席する「連合会役員顔見せ会」を初開催
精華團の発議により、連合会に宣伝部を設置し、古式なる祭典を広報。
昭和 81933法被新調。砂子金次郎氏の図案で、色彩良く一段と目立つ。
昭和 91934皇太子(2023年現在の上皇陛下)誕生。笠井町をあげて提灯行列等で奉祝。法被着用。
昭和 101935浜松放送局にて精華團が「道はやし」を放送披露。
会所幕を新調。
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