さて、ここからは、不確かではあるが、かなり突っ込んだ話をしたい。逆にここからが私の腕の見せ所だと思っています。ここからの話は実はまだ調べきれていない部分なので不確かなのだが、恐らくかなり良い線まできているのではないかと思う。
事実だけ知りたい人は、ここから先は読まないでくだざい。
おまけ1 まつりの始まり
浜商バレードのDVDの中に明治十三年(一八八〇年)神輿を御仮屋まで執行したと神社祭典記録簿に記栽ざれているのが最古のものだ。と書かれていたが、昭和六十二年(一九八七年)に百年祭をやったお仮屋が明治十一三年にはないでしょう.当時の渡行が日帰りならわかるけど。お神輿を解体した峙に明治初年に建造されたことがわかったが、本町の人がお神輿を愛知県から中古で買ってきたという話も聞いたことがあるが。
臭いのは明治二十年。お仮屋が創建された年.次に臭いのは明治六年、この年に(若倭神社の禮大祭をしているのに)春日神社が村社に格付けされている。どちらにしてもこの間に、笠井にすベてが揃ったからね、学校とか銀行とかも.それと、お祭りを一番初めに始めた(仕切った)のは本町という話も聞いたことがある。しかし、笠井の市と言えば上町。観音を中心に二十五軒に店を出せば必ず何でも売れたから、みんな上町に店を出したがっていた。本町と言えば江戸時代から市の開催について藩主に泣きついたり、火事に遭ったりと付いてない町だった.起死回生の手として当時本町内だった神社のお祭りを盛り上げる企画をたてたのなら話はわかるが。
おまけ2 祭り青年の名前
名前の由来は本編に書いたものを信じれば、政諾社は役場、警察署(明治十年)、笠勢司は登記所(明治二十四年)が造られる前に名前がつくことはない。明治九年に消防組ができたとき上町は倭組と名付けている事を考えると倭魂社は明治九年より前となる。
おまけ3 消えた若倭神社禮大祭
(1)御仮屋を調べて
御仮屋には若倭神社と染め抜かれた青い大さな暮があり、現在もお祭りの飾りとして御仮屋の正面に飾られていますが、お祭りの時は手繰られており文字は見えないように飾られています。また、神勢団、精華団の祭典記録簿には「若倭神社禮大祭につき山車をひき出す」という文章が書かれてます。春日町の住民に聞くと「昔は若倭神社のお祭りだったよ」と。しかも今更何を言うという人はたくさんいます。御仮屋にある青い幕にも、昭和二年に袴田清吉・袴田春吉寄贈と染め抜かれていますので、たぶんその後も若倭神社のお祭りが今後も続いていくことを見越して寄贈されたのではないでしょうか?
(2)由緒・創建年月日が書かれている本を爆読して
創建年月日を見ると「わが郷土笠井」と「笠井」は、春日神社は文明一四年(一四八二年)足利義尚創建後、天文十年(一五四一年)今川義元社殿造営、慶安元年(一六四八年)徳川家光社領五石の朱印寄進ありと書かれている。「元禄・天保・明治 遠江国石高表」を読むと春日神社に五石と書いてある。
また、「笠井・郷土の俤」では、若倭神社は創立年月詳ならざるも後一条天皇萬寿二年(一〇二五年)の棟札を社蔵す。廷喜式神名帳所載 遠江国麁玉郡若倭神社これなりと言う。所在地については、若倭神社の所在地は笠井村内に旧神官・神谷家居住地内に弥宜(神官職より一つ位の下の名称)屋敷(ねぎやしき)といえるものあるとなっている。若倭神社と春日神社は別にあって、若倭神社は神主神谷さんの敷地内の別宅の弥宜(神主の手伝い)が寝泊まりする家の中にあって、春日神社は現在の場所にあったと思う。たぶん神谷さんが両方管理していた。もちろん米五石も神谷さんが食べていた。石神清さんのお爺さんは山伏(今でいう占い師)をしていたらしく神社の近くに住んでいたと思う。多分お祭りをするにあたってどちらのお祭りをするか考えた時に創建年月日が古い若倭神社を選択したのではないだろうか?
春日神社の祭神はここら辺だと浜松の五社神社の祭神とほぽ一緒で春日神社がなぜにこの地にあるかというと荘園峙代に笠井の属する長上郡は藤原家の荘園だったから氏神の春日神社が祀られているのではないか?
廷喜式の峙代の律令国家時代、笠井は麁玉郡に属していたので由緒の意味は理解できる。ただ、若倭神社は神主神谷さんの氏神だった可能性が大である。ですので、もし、神谷家が途絶え神主が石神さんに変われば若倭神社禮大祭を辞める原因の一つになる。
もうーつの辞める原因は、宮口の住民からクレームがついたという可能性もある。万葉集に句を載せている若倭部身麻呂の氏神が若倭神社で同達いなくその身麻呂の親が住んでいたのは宮口辺り。宮口出身の神社の祀りをするのは何事かとクレームがついて、しらけて辞めた可能性も無くはない。もし、クレームが本当なら、律令国家の時、笠井は麁玉郡に属していたので若倭神社は笠井にあってもおかしくないと主張すればもしかしたら、現在も若倭神社の祭典だったのかもしれない。ただ、江戸峙代から若倭神社じゃなくて五石の朱印を寄進されていた春日神社の禮大祭とやっていれば、こんなにややこしくならなかったのにと思う。それからもうーつ、若倭神社の祭神天香語山命は昭和七年の「笠井郷土の俤」をみても神社内に祀られていないところをみると、神谷家の弥宜屋敷内に祀られていたのだろう。
笠井のお偉いさん達は峙代の大事な局面(祭典・鉄這・パイパス)で割りとミスるね。若倭神社禮大祭がいつ春日神社禮大祭に変わったのか?
それは今わかっているのは昭和二年(幕寄贈年)から昭和七年(笠井郷土の俤発刊)の間で間違いないだろう。明治大正と笠井の繁栄と供に行われていた若倭神社禮大祭は、現在は小さな石碑が隅っこにあるだけで寂しい限りである。どちらにしてもその辺り氏子総代にも資料を見せてもらいたいし、ちゃんと調べる必要があるね。