笠井の歴史 (わが郷土 笠井地区その風土と文化より)

 江戸時代、三代将軍徳川家光(一六三七年)のころから、笠井に市ができ始めたとされているが、当時の物、人の流れは、徒歩か舟.その為、近隣の村の繁栄の順番で行くと掛塚、二俣、笠井となる。掛塚は東海道のというより港として、西は京都、大阪、名古屋、東は江戸、東北の中継点となり西から東から刺激をうけ、二俣は天奄川で舟を使い南は掛塚、北は信州の中継点としてそれぞれ発展をしていた。

 そんな中、笠井はまだ、廷宝五年(一六七七年)には家数が八十九件、享保四年(一七一九年)には百十二件と何とも頼りない村だった。

 そんな笠井村の市がその後、足の踏み場もないくらいに繁栄したのは「塩」と「魚」の販売を藩主から許可されたということです.塩は人が生きていくためには欠かせないもので浜松藩では、塩町と笠井の市で魚は肴町と笠井の市でしか売ることはできませんでした。近隣の村の住人も天奄川を使って信州から来た人にも塩町に行かずとも塩が買える笠井の市は、自然に人が集まりだしたのです。人が集まるということは逆にいうと、商売するには絶好の場所でもあったのです。最初のうちは農産物を売ったが後に、売れるものは何でも売るようになり東は藤枝、北は二俣、佐久間、時には信州から。西は細江。舞阪、名古屋から商人がやってきて月に六回開かれる市に通りの住人宅の軒先を借りたりして商売をしていた。

 笠井の住人は基本的には農民で市が開かれるようになってから農作物を作らず、軒先を貸した賃料や自分たちも商売をして商人のようにしていた。

 一八〇〇年代に入ると中町一回、本町三回の大火や悪病流行二回、大干ばつに大洪水、百姓一揆に水野忠邦の重税と笠井村の市は繁栄しつつも災雑が多くふりかかっていた。文政九年(一八二六年)の笠井村は家数百五十五軒、人口六百五十三人と少しずつ増えていった。

 弘化二年(一八〇五年)井上河内守に藩主がかわり、織布の技術者を招き天保の大飢饉や相次ぐ大火、洪水で貧困にあえぐ子女に織布を織らせた。そうして、江戸の終わりにかけて木綿栽培、機織り機など、どんどん普及され笠井の市でも織物製品も盛んに取引されるようになった。大政奉還後、明治に入るとまた、笠井村は天竜川の大洪水で大さな被害をうけたため村人約六百人が百姓一揆、打ちこわし騒動をおこした。笠井村では明治維新は百姓一揆で始まったともいえる。笠井村はそれでも浜松に次いで栄えていたので、郵便局(明治六年)、警察署(明治八年)、裁判所(明治二四年)などが早くからできた。若倭神社又は春日神社も明治六年に村社となった。学校も明治六年にできた。明治二十三年(一八九〇年)に恒武に遠陽市場ができた。なぜ出来たかというと、笠井で間かれる月六日の市で、年々商人が増加して店ひろげる場所がなくなるくらいになったのと、笠井の軒先を貸している人たちも賃料をみんなでどんどん値上げしたので反発した地方の商人が隣の恒武につくった。さらに、笠井の人は意地悪で浜松に向かう時、遠陽市場の手前、油屋呉服店の十字路を西に曲がりしばらく行ってまた南に行き、恒武の西を通って上石田へ抜け、上石田のお宮を西に行き天王を通って神立に出て、馬込川のところで東海道に合流した道を通っていた。これが昔の笠井街這である。

 しかし、明治二十二年に東海道本線の駅が浜松にでき、明治三十一年には浜松・二俣間にも鉄道ができた。その後、浜松駅の東に天奄川駅もでき、馬車や人力の輸送、舟での輸送が増えた。その打撃をうけたのが、掛塚であり、笠井も影響を受けた.笠井に一部の人は当時、鉄道が通ると笠井の市に集まる物資が他ヘ流れてしまうという心配があり鉄道開通に反対する人もいた。これによっておくれをとった笠井は大正三年(一九一四年)、ようやく西ヶ崎駅から笠井まで鉄道をひいた。笠井には市の他に織物生産も盛んで東北地方から女子工員の募集を明治の終わりごろから大正にかけておこなった。大正三年から開戦した第一次世界大戦は笠井の織物の生産に拍車をかけ輸出製品が作っても足りない状態で綿、糸、染物、織物の仲買人などもたくさんいて遠州織物の黄金峙代になった。江戸時代から笠井の市は繁栄を続けていたが、江戸・明治・大正で見ると明治の中期から大正にかけて一番繁栄していたのではないだろうか。

 その後、第二次世界大戦の時も空襲もなく他の村にくらベて貪しいながらも生活はできていたのはないでしょうか。

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