四、祭典奉仕の祭り青年と各町の名称(内容は中町・石野隆氏の古老に聞いた話しより)
祭り青年とは、現在の若連の事で、祭典に奉仕する各町の名称は次の通りで、法被、提灯などには、皆、この名前が入っている。
倭魂社(上町)… 笠井商店の中心にあり、町の発展を大和(倭)時代の発展にちなんで大和魂ここにありと言う事で命名した。
精華團(住吉町・西町)… 上町の西に位置し、料亭・芸者置き屋などが多く華やかな遊びの出来ることからこの名前がついた。
政諾社(中町)… 笠井町の中心に位置し役場(現・公会堂)や警察署があり、町の政治をしたということで命名した。
笠勢司(本町)… 登記所があり、(現・三区公会堂)司法の行事を行って笠井の勢を示す事から命名した。
神勢團(春日町)… 笠井本町の北に位置し春日神社が地域にあり神の力と相まって住民の幸福を願い命名した。大正十五年八月十九日青年増加により祭典行動の独立を願うものが増え、笠勢司委員と文渉の末、平和約に分離した。
西魁団(西の山)… 平成の時代になって屋台を作り連合会に加名し、西の山の意地を見せようと命名した。
お祭りの最初は上町、中町、本町の三町でしたが、その後、西町、春日町が分裂加入し、長い間五町で行ってきましたが戦後時代も変わり、西の山も連合に加わり、全六町で屋台行動がでさるようになった.倭魂社、政諾社、笠勢司等の組名の最後に社、司の文字がつけられているが、この三社が中心でありこの後、加入した組名には精華團、神勢團、西魁団と組名の最後に団がつけられている.加入した当初はいろいろな差別があったようだが時代と共になくなってきた。
五、祭り青年(若連)に入るとき、辞めるとき
若連に入る時は「入り酒」と称して一人一斗から二斗くらい買って持っていかないと、仲間に入れてもらえず、辞める峙は「引き酒」と称して同じくお酒を持って行き辞めた。
「土のいろ」で昔の話を語っていた上町・川島光治郎氏が明治三十八年位に倭魂社若連に入った当時お酒一升が二銭だった。若連には年齢制限があり川島氏によると当時は十五歳から三十歳だった。「精華團記録簿」で見ると大正五年倭魂社、笠勢司は三十まで政諾社は三十二歳だが、精華團はその間の人材が乏しいので四十歳としたと書いてある。その後大正九年には四十歳から三十五歳へ、大正五年には三十五歳から三十二歳に変更している。
六、お日待ち
お盆が過ぎると、各町お日待ちを行い、その時にその年のお祭りの下話しすることになっていた。山車はどうするのか、おそろいの柄はどうするのか、山車以外の余興をどうするのかといったことも相談され、お日待ちがすぎるといよいよお祭りの準備にとりかかった。
七、山車について
(壱)「土のいろ」より
山車は、牛車の荷台のような形をしたもので、上・中・下の三台あった。出し物は各組み内緒で作成を進め、お祭り当日引さ出してお互いに相手方をアッと言わせようと秘策を練ったものだが、時には漏れて「何組は今年は何々を作るそうだ」なんて情報が流れてしまったこともあり、お互いに競ったものだった。上組に音羽屋という大工の棟梁がいて、この人は小柄だったが山車を作らせると、とても大きいものを作った。この山車というのは、竹籠で心を作り、それに布を張っていろいろな形のものを作ったのであるが、ある年のこと途方もない大さな象を作ったため、台に乗せることがが出来ないので、やっと台の皿に腰掛けるような格好で取り付けたことがあった。またある年には、大きな鯉を作り、うろこには団扇が使われていた。あまり大さい山車だと大鳥居を通る事ができず、山車を倒して通ったものである。
(弐)中町・石野隆氏の古老に国いた話より
屋合のなかった大正峙代は笠鉾という物を曳いていたそうです。笠鉾とは大八車に高い棒を立て、花飾りをつけていたようです。本町の油屋呉服店を西に曲がると大鳥居があります。各町内の若衆一同は笠鉾を縦にして通ったようで大変な苦労をしたようでした。
(参)中町・影山国一さん(笠井より)
中町屋台は私が子供のころから、三台目になる、大正峙代のものは山車と呼ばれて、台車の上に人形や提燈を飾り付けた素朴なものだった。車輪も丸太を輪切りにしたものであったように思う。二台目は掛塚の屋台大工・坂田歌吉の建造したもので、当時としては本格的な檜造りの立派なものであった。大正十二年の春、掛塚から舟で天奄川をのぽり、末島(豊西下)で舟から上げて運んだ。
(四)精華團祭典記録簿より
大正四年度。十一月十・十四、十五日の即位の礼を大嘗祭(おおにえのまつり)を合わせた「御大典奉祝余興奉行」の協議を十一月六日に行い、その際、当時属していた倭魂社(当番社)の対応を遺憾とし、西町として上町と別れ御大典奉祝余興奉行を行う旨を倭魂社に伝えたら倭魂社から除名勧告が突きつけられ、「精華團」と名称を決め政諾社、笠勢司と共に余典奉行を行う。御大典奉祝余興終了十一月十七日に倭魂社と和解の為、金一封を送るが、小倉倭魂社社長はそれを突き返してきたので、更に遺恨が深くなり、撲戦(抗争)の準備をした。
大典奉祝余興奉行の準備と内容
十一月十日
全町内各戸に球燈を吊るし、万国旗掲揚し、松の枝に造花の菊を施し、軒先に装飾の準備をする。午後六時、子供の提灯行列を先頭に青年はそろい法被を着て、樽御輿にて笠井尋常高等小学校の御真影奉安所前にて校長の発声にて万歳三唱し、氏神·若倭神社に向かい神社前にて万歳三唱し、引き返して下木戸より笠井本通りを北上し御仮屋に達し万歳三唱し、自町に戻り、残らず練廻り午後十一時終了。
分裂を決議して着る法被とはどんな法被?↑
十一月十三日
資産銀行裏に大角力(おおずもう)の土俵をつくる。世話人、青年役員協議の上、山車を曳き出すことを決議し製作する。三宝に御供物、御神酒壺(安酒・黒酒)を製作する
これが山車というものか?↑
十一月十四日
午前十時頃より少年大角力を開始.数百番の取組みののちそれぞれに賞品を配る。午後六時余興開始。出囃子音楽隊を先頭に樽天(たぶん、樽御輿)、山車にて各町練りまわり、午後十一時解散。
十一月十五日
午後六時、樽天出発。御殿山にて万歳三唱し、全町練りまわる。戻ってきて山車、出囃子音楽隊にて各町練りまわり、午後壱十一時解散。
十一月十六日
昨日同様、早朝より少年大角力を開始し、午後からは青年大角力をし大盛況に終わる。午後七時、中老達は裃行列、青年は出囃子音楽隊で御真影奉安所前にて万歳三唱し、若倭神社にて万歳三唱し、、笠井本通りを通り御仮屋にて万歳三唱し、自町へ戻り練廻り、御大典奉祝余興奉行を終了する。
大正四年「御大典奉祝余興奉行」役員
理事長:池田嘉助、副長:寺田弘吉、理事:小栗政吉、山田寿三郎・藤田勝蔵・安達弥助・松本弥市
世話人(準備員):三上義武・神谷良八・大石由太郎・高柳光正・加藤弥太郎・山田多三郎
十一月二十日
西町青年名称を精華団とする。
大正五年度
八月十六、十七、十八日の若倭神社禮大祭につさ余興として山車を引き出すことを決めたが、本年は精華團成立一年目なので、山車合の新調が間に合わず、上大瀬より借り受けて神輿の送迎をする。本年度倭魂社は、政諾社、笠勢司と確執を生じており単独行動をとる。
精華團は政諾社、笠勢司と文渉し軽便通りより南を自由に往復でさるように文渉した。政諾社、笠勢司はお仮屋参拝の時、西町を通過してくれ、近来になく賑わった。
大正五年若倭神社禮大祭役員
理事長:池田嘉助、副理事長:寺田弘吉、理事:松本弥吉、小栗政吉、安達弥助、馬渕弥十、藤田勝蔵
中老世話人名:三上長武・大石由太郎・高柳藤十・加藤弥太郎・有賀兼太郎・反田忠蔵
大正六年度
倭魂社との分離を確実に認められたくて氏子総代に文渉するが、なかなかうまくいかず、粘り強い文渉の結果、旧登記小路を西町に編入して倭魂社と手打し式を挙げて倭魂社の分家として正式に分裂を認められた。大祭に向けて山車台を新調する(材料は末島の鈴木〇平次、製作は西町内の高橋藤)。
大正六年若倭神社禮大祭役員
理事長:池田嘉助、副理事長:島田嘉助
理事:小栗政吉、安達弥助、馬渕弥十、福代与助、小栗栄次郎
中老世話人名:三上義武・大石由太郎・加藤弥太郎・有賀菊太郎・鈴木兼吉・橋本佐助・高橋寿太郎
大正七年度
山車およぴ、茶番狂言の余興をすることを決める。各地で米騒動が突発していて笠井にも暴徒来襲にそなえて消防組が警戒をする。時局をかみして茶番狂言は中止する。祭典は八月十五、十六、十七日に行う。
大正七年役員
理事長:福代与助、副理事長:島田嘉助
理事:池田嘉助、安達弥助、高井松太郎、大石道〇、小栗栄次郎
中老世話人名:三上義武・大石由太郎・加藤弥太郎・有賀菊太郎・鈴木兼吉・橋本佐助・ 高橋寿太郎
大正八年度
大太鼓一ヶ、小太鼓四ヶ寄付により購入.寄付金余ったので境提灯三張り購入。
大正八年役員
理事長:高井松太郎、副理事長:小栗栄次郎
理事:安達弥助、島田嘉助、福代与助、桑原時之助、小野田銀松
大正九年度
余興は山車以外にも各種出来る限り盛大に行う食気込みも、三月中句より株価大暴落に陥り山車のみとする。本年度より定年を三十五歳に改定する。
大正九年役員
理事長:高井松太郎、副理事長:小栗栄次郎
理事:安達弥助、福代与助、桑原時之助、小野田銀松、門奈〇雄、加藤清
中老世話人名:三上義武・橋本佐助・松本弥市・大石由太郎・小栗政一・安達亀吉・出口理作・馬渕由太郎・加藤弥太郎、有賀菊太郎
大正十年度
本年度余興は山車およぴ、各町に置き人形据える。装飾は松に金銀の短冊を取り付けた。
精華團青年と笠勢司青年が口論になったが倭魂社青年が間に入って事なく終える。
大正十年役員
理事長:小栗栄次郎、副理事長:安達弥助
理事:福代与助、桑原時之助、田中万平、門奈〇雄、加藤清、坂田作蔵
中老世話人名:三上義武・橋本佐助・松本弥市・大石由太郎・小栗政吉・安達亀吉・出口利三郎・馬渕由太郎・加藤弥太郎、高井松太郎
大正十一年度
昨年同様、精華團は山車およぴ置き人形を据える。
大正十一年役員
理事長:安達弥助、副理事長:福代与助、顧問:小栗栄次郎
理事:桑原時之助、田中万平、加藤清、坂田作蔵、大石単作、中安〇作
大正十二年度
山車(屋台)を改造する。大工は大石清太郎氏。改造に当たって特別寄付を集めたので昨年よりも各種の余興をした。記念として宴会を開く。
大正十三年度
観音堂境内査定場裏を借用して亜鉛板で屋台小屋を新築する。屋台およぴ底抜け屋台を引き廻して三日間を終了する。最終日、本町池田弥太郎氏の前にて笠勢司青年と政諾社青年が衝突をおこす。後日、倭魂社と精華團代表が仲裁に入って話を納めようとしたが納まらず、それが氏子総代、年番の耳に入り、九月三十日氏子総代、年番の仲裁で夕方めでたく手打ちとなり和解が成立した。
大正十三年度役員
理事長:田中万平、副理事長:福代与助
理事:桑原時之助、堀内春吉、小野田銀松、大村泰次郎、評議員:坂田作蔵
大正十四年度
昨年の騒動などの問題を未然に防ぐ策として「統監部」をつくる。
大正十四年度役員
初代統監:福代与助、理事長:田中万平、副理事長:加轟清
理事:小野田銀松、大村泰次郎、評議員:坂田作蔵、桑原時之助
大正十五年度
青年定年三十五歳から三十二歳とする。
大正十五年役員
統監:田中万平、理事長:加轟清、副理事長:桑原時之助、顧問:福代与助
理事:大村泰次郎、池田福松、宮本鹿蔵、松本文重、青島清吉、評議員:坂田作蔵
(五)神勢団祭典記録簿より
大正十五年八月十九日に笠勢司より分離し神勢團と名称を決める。西浦に籍がある十五歳から三十三歳まで男子で各家一人は入団しなければならない。入り酒は給与と同額分、引き酒は給与の三倍とする。若倭神社祭典の関与と町の発展に協力をするなど團員規約を作成する