奈良時代に、古代律令制(りつりょうせい)から荘園(しょうえん)制へ。笠井は一時、藤原氏管轄の荘園になった。春日大社は平城京の守護と国民の繁栄を祈願するために創建された神社で、藤原氏の氏神。荘園時代の藤原氏が笠井の地に春日神社を分祀(ぶんし)建立、そこに古来、笠井の氏神、若倭(わかやまと)神社が合祀されと推測されます。

笠井まつりの歩み 2022年令和4年(※池田充義氏 調べ)

※記述には伝承・推測もあります。確認出来ている範囲での記述です。足りない部分や正しい情報をお持ちの方は検討訂正しますので、info@kasaiism.com/matsuri/ あて、ご連絡ください。

より詳細な、総代、年番、統監、社長、副社長、若連などが入った年表は下のボタンから。
※現在判明している名簿で記載しています。皆さんの名前を記載し残していきたいと思っています。
池田大が過去の文献を調べてまとめた、おまつりや笠井町の歴史は下のボタンから。
※笠井や笠井まつりに関して、過去の資料を基に調べています。笠井の簡単な歴史も書かれています。
西暦和暦足跡(年齢は満年齢で記)令和2年現在で分かる範囲でのリサーチによる。
古来、この笠井地域周辺の氏神として若倭(わかやまと)神社はまつられていたと推測します。
1025萬寿2若倭(わかやまと)神社は、この年再建の棟札が現存。(延喜式神名帳 記)
1482文明14笠井春日神社は室町幕府 第9代将軍 足利義尚創建と伝わる。若倭神社は相殿、合祀。
1577天正5笠井春日神社(若倭神社 相殿)が、倭下林(わかばやし)に創建。「於:棟札(むなふだ)
1603慶長8

江戸時代

 

江戸幕府はじまる。家康の命で天竜川の水運が盛んになり、天竜材が江戸へ運ばれる。掛塚(かけつか)が栄え、神社が建立されたり江戸文化が入ってきた。祭り文化も広まっていく。掛塚の祭りは、お神輿の渡御、氏子が屋台を曳いてお供をしたと伝えられている。
1639寛永16笠井春日神社(若倭神社 相殿)が造営。「於:棟札」
1648慶安1笠井の市での塩・海産物の販売を、塩町(しおまち)と肴町(さかなまち)の商人に許可が下りる。それにより遠州(えんしゅう)の商人が集結、笠井の市は大きく飛躍。文化人も集まり、笠井に豪商(ごうしょう)が生まれる。
1697元禄10笠井上町 春日神社が再建。
1719享保4笠井 春日神社の神主は神谷三郎兵衛(かみやさぶろべえ)豊雷(とよいかづち)神社 創建。

笠井村 家112軒(内76軒本百姓、36軒水呑み百姓)於:国領組諸色覚帳(こくりょうくみしょしきおぼえちょう)

1758 宝暦8 笠井の市は、六斎市(ろくさいいち)(五・十の市/毎月末尾が5と0の日)として、上組・中組・下組の三組で、順に開くように取り決められた。(上組と下組に木戸有り)
1783 天明3 浅間山大噴火。天明(てんめい)の大飢饉(だいききん)。天明6年 不作。笠井村で一揆(いっき)起きる。
1787天明726代 山下佐治兵衛屋敷 全焼、笠井村は北から南まで残らず焼失。
1789寛政1このころ笠井の産業は、藍栽培(あいさいばい)、木綿栽培(もめんさいばい)、綿実油(めんじつゆ)、綿糸(めんし)を産出、綿布(めんぷ)を織る。
1808 文化5 大火で中組から下組へ50軒、笠井焼失。
1814 文化11 大干ばつ、大洪水、水疱瘡(みずぼうそう)の大流行。
1820 文政3 笠井の市で綿縞織物(めんしま)の取引が始まる。
1840 天保11 下組で火事。
1868明治1笠井村では、山下佐治兵衛の庄屋屋敷が600人に襲撃(しゅうげき)され家屋全焼。
1869 明治2 版籍奉還(はんせきほうかん)。笠井織物(かさいおりもの)の生産始まる。
1872 明治5笠井の市は、上組には(太物(ふともの)、古着(ふるぎ)、紙類(かみもの)、足袋(たび)、荒物(あらもの)、桶屋(おけや)、傘屋(かさや)、鍋屋(なべや)、金物(かなもの)、蝋燭(ろうそく)、豆腐(とうふ)、蕎麦屋(そばや)、菓子屋(かしや)、魚屋(さかなや)、青物(あおもの)、小間物(こまもの)、理髪(りはつ)、大工(だいく)、塗物(ぬりもの)、質屋(しちや)、旅籠(はたご)、居酒屋(いざかや)、米屋(こめや)、医者(いしゃ)、下駄屋(げたや)など)の店が並ぶ。中組と下組にも同様のお店がそれぞれ出店された。学制実施。
1874 明治77月5日明治政府の(一村一社)方針で、白山(はくさん)、豊雷(とよいかづち)、住吉(すみよし)、天白(てんぱく)、金山(かなやま)、社宮司(しゃぐうじ)、八幡(はちまん)、津島(つしま)、稲荷(いなり)、猿田彦(さるたひこ)、金毘羅(こんぴら)、秋葉(あきは)、天神(てんじん)を笠井春日神社境内に移転。
1875 明治8 笠井新田村が笠井新田村と上村に分村。
1876 明治9 8月21日、浜松県と静岡県が合併。笠井村の消防組(倭組わぐみ、奈組なぐみ、志組しぐみ)が結成される。
1879明治12笠井春日神社(若倭神社 相殿)の新拝殿が建立。
1880明治13若倭神社禮大祭として祭りが始まる。中古のお神輿で渡御を始めた(9月8、9日)。

祭り世話人は上組/加藤儀八43歳、山下吉十41歳。中組/島田勘平40歳、榎吉太八28歳。下組/高林善次郎41歳、青島忠平37歳が選出。初代総代/加藤儀八と島田勘

1881明治14本物のお神輿を新築するように決まり、新神輿の準備の年となった。長老の意見を交えて、新神輿にふさわしい本格的な渡御を目指した。莫大な寄付金が集められ、3月に岡崎の業者へ新神輿を発注(内金9円)。

9月6、7、8日に中古の神輿で2回目渡御。御仮屋は表木戸辺り(西村時計店付近)と推測。

1882明治157月10日に新御輿(棟梁 加藤文二郎)が完成、総工費239円。9月6、7、8日の祭典に、黄金のお神輿が神々しい鳳凰を乗せ見事な姿をお披露目。鳳凰は木造、上がり藤の神紋。

お神輿の渡御は、金棒(かなぼう)、高張提灯(たかはりちょうちん)、太鼓(たいこ)、御旗(みはた)、神旗(しんき)、雅楽(ががく)/笙(しょう)、篳篥(ひちりき)の伶人(れいじん)、神職(しんしょく)、神輿白丁(みこしはくちょう)12名、輿脇(こしわき)、御供櫃白丁(おくはちはくちょう)2名、弓矢(ゆみや)、鉾(ほこ)。道を天狗面つけた猿田彦が沿道で土下座している氏子や町民の頭上を榊(さかき)でお祓(はら)いをする。後方のお供は手提灯(てちょうちん)、羽織袴(はおりはかま)、裃(かみしも)で行列に参加。笠井街道を歩き、上町の御仮屋にて一夜を過ごす。笠井まつりの内容が確立。御仮屋の位置は、明治16年の火事の名簿から、最初は裏木戸(うらきど)付近に、御仮屋、お輿台を設置したと推測。(上の写真は平成8年解体修理後。下の写真はその時、確認された棟梁の署名)

3年目の当番総代は青島忠平39歳、榎吉太八30歳 ●年番 上組 松下仙五郎36歳、大梢太十、門奈茂吉、大橋寛吉/中組 石津福松、島田嘉平、山下安平/下組 内山利吉、袴田正太郎、鈴木弥十、鈴木友次郎(当時は大変名誉ある役だった)

1883明治169月6、7、8日、お神輿渡御。年番は前年同様12名が選出、渡御の準備を担当。飾り屋台でお神輿の後ろについて、若連の練りが始まる。

12月27日笠井上町の109軒全焼。大災害になる。市神様焼失。福来寺本堂全焼。御仮屋の神輿台と燈籠台が焼失。2月18日豊田橋が開通。歩行者1人1銭、荷車4銭5厘。

1884明治179月6、7日に祭りは行われる。前年の火事で上組は家などの復興中なので、大提灯二張を造って祭に参加。

糸瓜(ヘチマ)栽培が始まる。笠井警察史には「笠井村は男子誕生に初凧を上げ、親戚集い宴を開いた。近所には温かいが外からくる人に冷たい。多くが農民なので、婦人も男子のような服装だ」とある。

1885明治189月6、7、8日 お神輿の渡御

笠井春日神社(若倭神社 相殿)の屋根替え(前回から6年が経過)。

1886明治199月6日雨天延期 7、8、9日に祭典は行われた。以後、毎年9月に笠井春日神社(若倭神社 相殿)の若倭神社禮大祭が行われていく。

笠井村の北の端(現在の位置)に、御仮屋を新築。

1888明治21天竜川鉄橋完成。浜松駅開業。
1890明治23年番は2年交代。新人2名。五色の旗を鍋屋から購入

10月20日遠陽市場開設、40店出店。

1891明治24笠井町発足(町制施行)。福来寺だるま市始まる。
1892明治25●年番 上町:役割 御仮屋建/下町:役割 鳥居建/中町:役割 神輿組建と、各町の役割が決まった。上町が最初の当番社と決まる。
1894明治274月浜名郡笠井町に。当時、笠井の風景を描いた司馬老泉の絵では、笠井街道の西は寺以外はすべて畑。
1895明治28上町 倭魂社(わこんしゃ)・笠井商店の中心にあり、町の発展を大和(倭)時代の発展にちなみ、大和魂ここにありと言う思いで命名されました。中町 政諾社(せいたくしゃ)・笠井の中心に位置し役場や警察署があり、町の政治をした地域ということで命名されました。本町 笠勢司(りっせいし)・司法の行事を司っていた登記所(現・三区公会堂)があり、笠井の勢を示すことから命名されました

大八車に丸太を立て軒花(のきばな)や提灯を飾った屋台で、若連はそれぞれの町内を引き回す。

1896明治29長上郡から浜名郡 笠井町に。
1898明治31●年番 上町(当番社)

以降当番社は、上町、中町、本町の順で、年代わりで運営。11月28日「大極上(だいごくじょう)」神社太鼓 鈴木幸作寄贈。

1899明治32祭典日を8月16、17、18日に決定。笠井春日神社(若倭神社 相殿)の本殿建造。春日神社雑用庫新設。
1900明治33本町に永世銀行、上町に資産銀行が設立。パリ万博に笠井の糸瓜(ヘチマ)を出品、高評価。
1902明治35上町の「天満宮(てんまんぐう)」に御仮屋建設。
1904明治372月 日露戦争開戦。7月 池田橋流出。
1905明治38若連入会条件、15歳から「入酒」1斗~2斗買って入会、30歳で「引酒」を買って引退する習わしがあった。当時1升は2銭/川島光次郎 談。

豊田式 軽便式織機が完成、電気で能率が向上し品質良好、各地で導入。

1906明治39若倭神社は笠井銀行より借用八百円也。記録あり。
1907明治40笠井春日神社(若倭神社 相殿)の正面鳥居を花崗岩(岡崎産)で建造。

※写真は現在

1908明治41笠井の織物産業は好景気、祭典が大いに盛り上がる。笠井街道に町並み500軒。商店会も活気に満ちていた。
1912明治457月30日明治天皇崩御(ほうぎょ)
1912大正1神馬と大正時代のお神輿渡御

1913大正2若倭神社禮大祭に屋台が登場。(写真は倭魂社/そろいの浴衣姿)

藤原兵吉は劇場・神徳座(しんとくざ)を若林に開業。

1914大正3倭魂社屋台に人形飾る。
1915大正4天皇即位の大甞祭(だいしょうさい)の後、行う新嘗祭(にいなめさい)余興の倭魂社のやり方に対して、西町有志がこれを遺憾(いかん)とし西町単独で行うことになり「精華團(せいかだん)」と名乗る。(相撲大会、樽御輿、山車、出囃子の音楽隊で練る)

笠井町立女子技芸学校開校。

1916大正5精華團は山車が間に合わず、上大瀬より借り単独行動。
1917大正6精華團が正式に氏子総代の裁断で、倭魂社の分家として承認。山車を新調。
1918大正7笠井春日神社(若倭神社 相殿)の若倭神社禮大祭祭典が8月16、17、18日に変更。

遠州織物で成金が続出。スペイン風邪流行。

1919大正8精華團は大太鼓1個、小太鼓4個、境提灯3張を購入。天然痘が浜松で流行。
1920大正93月株価大暴落 遠州織物不況。6月20日資産銀行と西遠銀行が合併して遠州銀行に。
1923大正12お神輿のうしろに屋台が登場。倭魂社は二俣から中古の漆塗り屋台(写真)を購入、法被に白短パン、揃いの腰帯。

2代目 政諾社、屋台完成。(掛塚の棟梁・坂田歌吉/彫刻・伊藤松次郎)

この頃から中町のマルス青果と高林家具前の道路中央の秋葉燈籠と火の見櫓前に、祭壇と注連縄(しめなわ)を張り市神様(いちがみさま)が行われた。八木橋周助は、浜松~笠井のバス運行(8人乗り・料金50銭、道路途中でも乗車可能)。中谷自動車商会(合同)も笠井~中瀬小松宮口を運行。※9月1日関東大震災。

1924大正13精華團は屋台建設 福来寺境内に屋台小屋新設。

1月笠井技芸学校焼失。豊田佐吉が完全自動織機完成。笠井で織物工場の下請けが増える。

1925大正14若倭神社禮大祭に「統監(とうかん)」設置。

遠州織物は震災後、大阪で大好評、全国展開。木俣千代八は貴布弥(きぶね)に日清紡績誘致。

1926大正15

昭和1

笠勢司、屋台新築(棟梁・本町 高井喜代司)。8月19日、神勢團(しんせいだん)は笠勢司から独立。

政諾社、屋台新築(棟梁掛塚 坂田歌吉、鳳凰 伊藤松治郎、鬼板 山下久一郎)人形を飾る(猿飛佐助、織田信長、忍術使い、今川義元、徳川武将/島田圭司さんの記憶)。

12月25日大正天皇崩御。

1927昭和2神勢團は橋爪(旧万斛/まんごく)村より、屋台を借りて人形を飾り参加。8月御仮屋に「若倭神社の幕」を袴田清吉・袴田春吉が寄贈。

高柳健次郎テレビジョン実験成功。

1928昭和3西町を住吉町と命名。雨のため樽(たる)御輿で行った。

神勢團は屋台建造(笠勢司から独立)。17、18日は雨のため、樽御輿で行った。

1929昭和4精華團は子供が揃いの浴衣で踊り、町内の羨望の的に。※お囃子(巾1間9尺、長さ2間、2寸角の柱、左右の弓張のように提灯を並べ提灯の下に造花を飾り、小太鼓3個をぶらさげて、歩きながら叩く、三味線2人、横笛2人鐘(ちんちろりん)1人、曲目は(ごろう、かごまわし)。神勢團、屋台の人形を中止。

春日神社 社務所改築(石神春江宮司)。2,426円の氏子の寄付金で建設。

世界大恐慌(ニューヨーク株大暴落)。

1930昭和5春日神社(若倭神社 相殿)の表石垣建設(寄付/加藤實次郎、加藤伊久蔵、加藤清七)

雷神社、鳥居建設(寄付/池田龍之助66歳、加藤弥太郎)

糸瓜500万本(海軍の甲板掃除用年20万本、皿敷、火鉢敷、スリッパ、湯殿敷、土瓶敷、肩流し)最盛期。

1931昭和6笠井町祭典連合会発足(各社全員参加)。精華団は三福の芸者さん指導で「住吉踊り」など習う。町中の人気を集めた。神勢團は、子供に菓子配る、屋台の車巾狭く修繕。

満州事変 以後15年続く日中戦争で日本は軍国主義へ。

1932昭和7倭魂社と精華團は、屋台に人形を屋台に飾った。笠井では屋台が廻って来ると、ご祝儀を出す習慣があり若衆は朝まで屋台行動をしていた。

お囃子連は芸者さんの三味線に合わせ、浴衣に花笠をかぶり夕方から夜9時頃まで踊った(倭魂社の話)。写真は昭和8年の住吉お囃子連屋台。

5.15事件。国際連盟脱退。

1933昭和812月29日皇太子奉祝は法被着用、靴禁止、提灯行列。

春日神社(若倭神社 相殿)の寶庫(ほうこ)建設。工事費894円10銭5厘。

笠井郵便局は洋館で新築(榎吉純局長)

1934昭和9

大鳥居6m「蛇籠(じゃかご)」を笠勢司が建立(以後22回、昭和32年まで)、倭魂社屋台。

1935昭和10

写真は倭魂社が立てた吹き流しと倭魂社屋台。神勢団は太鼓新調。

1936昭和11精華團記録終了。神輿の渡御は30分早める。写真はこのころの飾り付け人形。

若倭春日社の社格昇進願いを神主・石神春江が提出。静岡県遠江国浜名郡笠井町字若林 鎮座 村社式内 春日神社。

1937昭和12倭魂社、屋台新築。2月27日春日神社本殿玉垣を新築。花崗岩天竜丸石。工事費643円12銭

遠州織物生産額は過去最高に。7月日中全面戦争で綿花、綿糸統制。松菱百貨店開店。

1938昭和137月23日春日神社(若倭神社 相殿)が郷社(ごうしゃ)に認定。以降、若倭神社禮大祭は、春日神社禮大祭で開催。

非常時で屋台行動は禁止。お神輿の渡御のみ行う17日雨、18日渡行、19日還行。国家総動員法(こっかそうどういんほう)公布。

1939昭和14国民徴用令(こくみんちょうようせい)公布。
1940昭和15政諾社も、お囃子(はやし)連があった(鈴木憲談)。神勢團の記録では16、17、18日の余興、屋台お囃子連は氏子総代の許可が必要とある。(写真は倭魂社屋台)

 

1941昭和16倭魂社の吹き流し、政諾社の幟、例年通り行う事、各社司團連合で奉納相撲大会を開催。神酒は一日2升と定め会所で飲むこと、屋台行動は中止。青年は神輿の渡御に参加。

太平洋戦争開戦する。ラジオ放送始まる。

1942昭和17倭魂社の吹き流し、政諾社の幟、境提灯は例年通り。大東亜戦争時局の重大時に付き置き屋台。日章旗と海軍旗神輿の腰脇に立てた。
1943昭和18境提灯、吹き流し、幟は年通り、屋台行動中止、余興は随意。会所は例年通り。防空の報ある時は中止。

永世銀行が、静岡銀行笠井支店(石造りの建物)に。

1944昭和19樽御輿でおこなった。12月9日東南海地震。福来寺観音堂の西側に被害あり。12月23日浜松に空襲市内壊滅。
1945昭和20小倉三夫さんは、お囃子連を曳いて数人で町を歩いたと証言。3月10日 東京大空襲10万人死亡。8月6日広島9日長崎原子爆弾 8月14日(無条件降伏・ポツダム宣言受託)8月15日終戦。祭典は中止。
1946昭和21お祭りは慰安祭として開催。東京音頭、瑞穂(みずほ)踊りで町内を一周。神勢団は祭典費を区費の20倍に。
  屋台行動のみ実施(写真、上は政諾社、下は神勢団)。

本町蛇篭で大鳥居を飾る、中町マルス前と郵便局前に大幟、上町は五色の吹き流し、上町は御仮屋の夜警備を担当。春日神社は県社六等級に認定。学校が六・三制に。パン12円、牛乳15円、床屋子供10円、酒1升425円。1月10日だるま市開催。

1948昭和23お神輿の渡御再開。政諾社 社長 中谷豊吉。屋台を青厓の絵画で飾る。写真は精華団、若連。
1949昭和24露天商屋台が伊藤下駄屋から郵便局付近まで並んだ。福来寺に大吹き流し。倭魂社は山形屋の二階から投げ持ち。(写真は政諾社)

お神輿の渡御実施。裃袴で各家1名お神輿の供に出た。お仮屋から福来寺まで長い行列に。ガチャマン景気の織物産業が笠井をリード。大相撲が福来寺で2回興行。

1950昭和25写真は倭魂社
1951昭和26倭魂社のお囃子連と花屋台。

笠井町と豊西村が合併。合併記念に5月7、8、9日屋台行動。笠井商店会連盟で花火を200発天竜川で上げる。

1952昭和2716日は午後12時まで。屋台は17、18日、神勢団はやまや角、笠勢司は萬屋前、政諾社、精華團、倭魂社は丸保四辻前に並ぶ。舗装区間は午後21時まで。舗装区間の家に散水を依頼。(写真は政諾社)

7月22日笠井街道は全面アスファルト舗装に。

 

1953昭和28春日神社周辺で17日夜に花火大会を始めた。年番は花火の寄附集める。

天竜川の大水で濁流(だくりゅう)のため大川で、清水払い。笠井中講堂落成。校歌できた。

1954昭和293月31日 笠井町は、浜松市と合併。
1955 昭和30神勢團と精華團は屋台新築中で屋台行動は無し。お神輿渡御は夜9時出発。屋台行動は夜中の2時頃まで。
1956 昭和31政諾社お囃子し連(犬塚儀明、松本芳郎、池川英雄若連2名、加音屋2名)は最後の年。

お神輿行列は、御神馬、金棒、露払、高張、砂蒔、太鼓、天狗、大鉾、小鉾、弓、矢方、大榊、銭箱、輿、輿脇、小鉾、御供物

神武景気が、高度経済成長推進。佐久間ダム完成

1957 昭和32笠勢司の蛇篭は永島の今井喜代治が造る。8月16日午後3時から7時組み立て完成。費用は1万円。4~5年で造り変える。白布は52反、羽鳥屋クリーニングで洗う。しめ縄は白布で造る。丸太、杭打ち材木、竹棒は氏神倉庫へ、額は養円寺(ようえんじ)、縄は油屋倉庫へ収納した。神勢團 屋台、お囃子、手踊り。
1958 昭和33精華團、福来寺の現在地に屋台小屋を新築。笠勢司は蛇籠の大鳥居を廃止。大幟(おおのぼり)を立てる事にした。幟の竿は阿多古山(あたごやま)へ田地川佐太郎、鈴木寅吉、川島光次郎が買いに行った。お囃子連中止(若連と子供が集まらなくなった)。

蛭子森(ひるこもり)古墳発見 秋葉ダム完成。

1959 昭和34屋台は、倭魂社は観音前、精華団は丸保(まるほ)角、政諾社は中安(なかやす)医院前、笠勢司は静銀前、神勢團は やまや角に7時20分集合、御仮屋到着8時50分まで。下駄皮靴は駄目。前の屋台との間は綱先から15m。統監の接待はジュース。外交は綱先へ2名以上付く。
1960 昭和35屋台は、倭魂社(福来寺前)精華團(丸保角)政諾社(中安医院前)笠勢司(静銀前)神勢團(島田工場前)19時30分。隊列を組んで御仮屋へ出発。神勢團は、鯉と山の屏風(びょうぶ)絵を屋台正面に飾った。
1961昭和36●年番(写真)前列左から、神)竹内歓次、門奈茂治/倭)秋山金吾/石神宮司/倭)鈴木清二郎/精)永田徳次、桑原勝/後列左から、笠)磯貝照治、鈴木ヨシジ/政)石牧、池田米治、犬塚義明、松下建具
1962 昭和37最後にお神輿の先頭の馬に乗ったのは、門奈剛一さんと桑原勝さん(桑原談)。
1963 昭和38神勢團は屋台を解体して修理。お囃子連は全町廃止。お神輿の先頭の馬を廃止した。
1964昭和39屋台行動は、16日は夜10時30分まで、17、18日は夜12時までと警察から通達。

東京オリンピック開催。新幹線開通。

 

1967昭和42祭典日を土、日に変更してほしいと若連から要望あり。笠井中火事。
1968昭和43祭典時間は17日18日 午後6時~10時まで。交通規制。

7月17日、笠井中が再度火事に(三度目)。東名高速道路、開通。

1969昭和44神勢團は8月14日屋台の綱が切れ、屋台を引いていた子供数名が足に怪我。8月16日屋台から子供が落ち全治2週間の怪我あり。4月 青和会(せいわかい)創立
1970昭和45開催日を、8月14日(金)、15日(土)、16日(日)に改正。

屋台に保険(前年度、子供ケガ)。浜北大橋開通。大阪万博開催。6月池友が火事。

1971昭和46交通規制18時~21時まで。天狗を年番がやるようになる。家が増えて、花火はスターマインがメインに。

県立東高校が笠井新田に開校。

1972昭和47道路許可は17時~21時30分。

写真は笠勢司の若連。沖縄日本復帰。

1973昭和48緊急車両が通過できるように、道路許可は東片側のみとされた。
1974昭和49道路許可18時~21時30分。
1975昭和50神勢團屋台小屋新築。
1976昭和518月16日雨、17日雨、綱の中で曳く。ビンをもって歩かない。腕章をつけて交通整理する。

11月 遠鉄ストア笠井店、開店。

1977昭和52祭典を話しあう会を開催。◎交通規制(19時から21時)お神輿出発を19時30分にする(若連要望)。◎法被を着用しない者は参加不可。一般のお供を増やすのに背広でも可とする。(総代)◎多くの氏子に神社に参拝してもらうために16日に花火大会をする案が出たが17日に神輿の渡御で客を呼ぶので従来の方が良いとの総代の意見があり、17日に花火大会をすることに決定。年番は架設電話を導入。花火の目録を改善。白丁を依頼するのに苦労した。◎年番同志は、接待など当番社が多忙すぎるので、協力しあうように要請したところ賛同を得た。(年番長池田充義)

倭魂社屋台新築計画。

1978昭和53倭魂社、屋台新築/一層唐破風檜造り(いっそうからはふひのきづくり)早川真匠 造。春日町の村木和見さんは、この年よりお神輿の供を令和4年現在もずっと続けている。道路許可、本通りは練り、踊り禁止。許可は午後6時から9時まで。
1980昭和55春日社、屋台新築(一層唐破風桧造り)町内の手造り。
1983昭和58政諾社屋台新築(一層唐破風総欅造り/小池工務店 小池清、彫刻 鈴木嘉一)。
1984昭和59春日神社本殿参道の鹿像が復活。太平洋戦争中の1942年に発動された、金属類回収令により無くなっていた鹿の銅像が若林の有志により再建されました。5月吉日寄贈(寄付者:若林利夫、村木和見、鈴木与士夫、鈴木やすゑ、鈴木基司、鈴木政春、鈴木政治、鈴木 強、鈴木武次、鈴木修三、鈴木 清、鈴木喜代治、神谷茂三郎、石神 清)

1986昭和61笠井町ヨシヤ家具火事
1987昭和624月天満宮百年祀り寄付者39名 金362,000円。燈籠(とうろう)と幟を新調。
1989昭和64

平成元年

 

1月7日 昭和天皇崩御

大提灯2基新調(中島忠司、松下幸夫、金田やす。松本芳郎、中村甲治、犬塚義明、 青島笹雄、石埜はつ、池川武雄、田代賢治、平野はな、平野きよ子、小野タキエ、袴田信重、砂子力)。白丁がお神輿を担ぐのは本年で終了。

 

1990

 

平成2

稚児(ちご)行列が輿車(よしゃ)に乗せたお神輿を曳(ひ)く。様式が始まる。

神勢團、屋台新築。二層唐破風入母造り。(小池工務店/彫刻・早瀬宏)

1991平成3西魁団(さいきだん)、屋台新築(一層唐破風桧造り)寺田建築/彫刻・志村孝士

春日神社祭典は8月14日・15日・16日に決定。

1月10日 笠井町100周年記念 笠井商店会は元ヤオハンで「だるま展などを開催」

1992平成4屋台人形は笠勢司の「織田信長」が最後となった。祭典本部は暴走族が文泉堂(ぶんせんどう)の四つ角を占拠していたのでおびや駐車場を使用
1993平成5春日社(かすがしゃ)が笠井まつりに参加。

笠勢司、屋台新築、棟梁(有)安間工務店。旧屋台は渡瀬町で浜松祭にも参加している。

1994平成6精華團、屋台新築(一層唐破風桧造り)。大工・大城勝久、彫士・雨宮國雄。

お神輿の供/池田充義 初、山下吉十22年目、村木和巳17年目

(池田充義 談)白丁がお神輿を担ぐ。重たく肩に食い込む。ゆっくりと下駄で歩く。あまりに遅いので、結構疲れる。池田の家紋入提灯に榊を持ち、道路の真ん中を歩く。道路の両側には、座っている人たち。お神輿が通過するときは頭を下げる。天狗が大榊で、お祓いして先頭を歩く。屋台が提灯をかざし神輿行列の後ろに並んでいる光景は、この場所でないと見ることができない。壮観な夜空。近隣では類を見ない笠井まつりは凄いと感じた。

1995平成7政諾社屋台小屋移動。大木工務店が工事。精華團、屋台新築(棟梁 大城勝久、彫刻 雨宮國雄)
1996平成810月12日お神輿解体。塗り直す。(神輿には明治十五年五月十日棟梁・加藤文二郎の記あり)
1998平成10春日神社稚児行列参加資格の変更/従来の笠井町在住の小学校二年生女児から変更。

新資格:故郷が笠井町出身で他地区に在住の方、親戚や友人が笠井町にある方、笠井上町や笠井新田町在住の小学校二年生女児。(これより稚児行列参加人数増加を期待)

「笠井まつり」ポスターとは別に、「稚児行列参加」ポスターを作成。参加資格の変更と募集内容を広く告知。春日神社稚児担当 冨田年彦と京都(株)井筒が協力して作成。

1999平成11春日神社祭典について、お神輿渡御の役割の再興と学習/大祭役割の内、御供櫃と小鉢を復活。御供櫃と小鉢の各2名で計4名の衣装を(株)井筒と相談、雑色衣装(退紅色)を新調。小鉢衣装は若武者装束とした。年番長と副年番長に烏帽子に金色の細い帯を縫いつけ誰でも解るようにした。春日神社の祭日用語を解説し文章化。大祭の役割分担の文章化、渡御衣装名の文章化。

神社紋(大久保藤)と確認した。

春日神社祭典で「お守り札」「鈴」「絵馬」「キーホルダー」「ストラップ」を仕入れて年番で販売。(計30種類)FMHaroの「MY PURE LIFE」(パーソナリティー)鈴木静華「週末おでかけガイド」に、副年番長冨田年彦が出演して笠井まつりをPR。

2000平成12春日神社禮大祭全般を撮影。担当・山下智之(協力:笠井ぴんぼけ倶楽部、郷土の歴史と文化を学ぶ会)。

8月16日法永寺火災全焼。22分団は法被のまま現地へ直行。村木千代八は号令をかけて堂内の大切な荷物を外へだすように奮闘。荷物は葵会館へ収納。

2002平成14(4月から9月)春日神社社務所の設計で協議。建設委員会会長 池田譲、副会長 久島實、総務特別会計 金田吉夫、建設管理委員長 名倉長市、副委員長 山下智之、兼建設会計 小栗寛、兼監査役 木村徳衛、委員鳥 羽山立、門奈道夫、当番年番長 小島直之、当番副年番長 中野成規、第八自治会長 長谷川幸次、第八副自治会長 中野誠一、第三自治会長 高林七郎、鈴木武次、鈴木政次、竹内鉄雄、若林利夫、鈴木廣、鈴木基司
2003平成15春日神社社務所新築工事(3月12日~7月31日)竹下一級建築士事務所。施行 伊藤建築 伊藤三喜男(7月15日完成)
2004平成168月16日屋台集合場所変更。丸二酒店から御仮屋の東までに屋台を詰めて止めた。祭典本部 中町伊藤伊佐夫敷地を使用。祭典ポスターに、広告をつけた。
2005平成17最終日は神輿を納めた後、全屋台が春日神社前に集合して、年番長の挨拶のあと激練りをして解散。
2006平成18春日神社外周の石垣と石塔が名入れで完成。
2008平成20お神輿8月15日(18時45分~20時着)、8月16日(19時20分~20時30分)。本通りの餅まき中止。
2011平成233月東日本大震災。浜松祭など祭事が各地で中止。
2012平成24「笠井まつり」第1回パンフレット発行。未来への贈り物プロジェクトで、1年間かけて笠井連合会地域のすべての行事を写真撮影。

2013平成258月15日政諾社は昼間、春日神社へ向かう前に西の山定明寺東側に変更。初めて西の山に屋台が6台揃った

家康君は政諾社屋台と一緒に台車に乗って御仮屋へ渡御のお供をする。途中で遠信の前で、寸劇をした。

2014平成26元 笠井郵便局を池田 大が補修再生。

2015平成27
2016平成288月15日、本町休憩所で豪雨中止。稚児と招待者をバスで春日神社まで送る。年番はずぶぬれになって御仮屋までお神輿を曳いていった。春日神社 禰宜 石神好洋が祭事を行う。
2017平成29政諾社は「牡丹」の額、市松提灯でLEDを使用し昔の光を再現。

笠井春日神社の古書4冊をまとめ春日神社社務所に収める。編集 池田大、解読 村木千代八、書類編集 池田充義。

2018平成30宮司 石神清、禰宜 石神好洋。8月15日雨天中止、16日は小雨決行。4月津島神社改修。

11月福来寺へ中谷洋裁店解体し返還整地、「市神様」の祭事は来年からこの地で行う。

笠井歴史看板を福来寺門前に建てる。

 

2019平成31

令和1

 

宮司 石神清、禰宜 石神好洋

2月28日(春日神社大祭と神輿渡御)浜松地域遺産・民俗無形文化財に認定。

市神様の祭事を福来寺境内で行う(餅を配布)。

2020令和28月15日は炎天下、お神輿と宮司を軽自動車に乗せ、総代と年番は徒歩で、西浦通りを渡御。8月16日も炎天下の中、東浦通りを還御。

コロナが世界中で流行。祭典は、浜松祭りなど各所中止。甲子園、大相撲、サッカー、野球など中止や延期。オリンピック2021年7月に延期と決定。

2021令和3屋台の引き廻しはコロナ禍で中止。

お神輿渡御、8月15日18時出発→第八山崎家駐車場(給水)→笠勢司屋台置き場→中町自治会池田家駐車場→田中酒店前→天満宮(19時着)。8月16日18時出発→第二自治会(給水)→中町自治会(給水)→おおるり笠井→第三自治会須山家(給水)→春日神社(19時着)

2022令和4屋台の引き廻しは各町内まで。各町内でお神輿の渡還御を見守る。

お神輿渡御、8月15日18時出発→第八山崎家駐車場(給水)→笠勢司屋台置き場→中町自治会池田家駐車場→田中酒店前→天満宮(19時着)。8月16日18時出発→第二自治会(給水)→中町自治会(給水)→おおるり笠井→第三自治会須山家(給水)→春日神社(19時着)

2023令和5コロナ禍を乗り越え4年振りに、通常開催。

15日は大雨のため祭を自粛、若連は町内や隣町との交流となった。16日午前中から神事をすませ、お神輿は神主と年番の誘導で御仮屋まで昨年の道順で渡御。

夜は予定通り、正式な行列で、お稚児さんや若武者などと還御。屋台が御供について若連の練りが入った。笠井のまつりが戻る。

 

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